「言葉」というあやふやなものについて

 

 

「言葉ってなんだろう」

 

中学3年生のときにふとそう思ったことがある。

私たちには「言葉」というものが存在している。

 

それはいろんな使い方ができるもので

単純な意思疎通から

感動をや感謝といった温かい感情を与えることもできる一方で

嘘をつくこともできるし

他の誰かを傷つけることもできる。

 

私は非常に言葉に敏感な人間だ。

人一倍、人の感情や考えを相手の言葉から汲み取る力が強いと自覚している

 

だから普通の人が気が付かないような細かい感情や考え方や人間性まで、その人の言葉から読み取れてしまうことがある。

人からはよくそれを「洞察力がある」と言われるが、私は単純に言葉に敏感なだけなのだ。

ときに「読み取れなければいいのに…」と思ってしまうこともあるのだが、だからこそ気が付いたことがある。

 

それは、「言葉は道具でしかない」ということだ。

 

そんな当たり前なこと…というため息が聞こえてきそうだが、実際にはほとんどの人がそのことを腑に落とせていない。

 

ほとんどの人が言葉を乱用している。言葉を都合よく解釈し使っている。

と思わざるを得ないことがほとんどである。

 

言葉は伝えたいことを便宜的に表すための「道具でしかない」

文字というは、考えを形にするためのインクの染みでしかない。

 

だから言葉は真実ではないということを重々承知しなければいけない。

 

人が使う言葉の裏にはたくさんの「意味」がある。

その言葉を通じて「何を言わんとしているのか?」ということを汲み取ることが重要だ。

それができる人が重みのある言葉を扱える人だと、私は思う。

 

そのことに中学3年のときに気が付いた私は、

「本当はこの人は何を思っているのか?」ということを汲み取る努力を自然と行っていた。

 

だから言葉を簡単に使う人に対してものすごく違和感を感じるようになった。

逆に、ひとつひとつに自分なりの明確な意味や定義をもって言葉を扱う人に対して感動と信頼を感じるようになった。

その言葉の抽象度が高い人ほど尊敬するようになった。

 

そのことから分かったことは、言葉には自分の人間性が全て現れるということだ。

ちょっとした表現や語尾や扱う言葉で、本当は何を思っているのか、言葉を乱用している人なのか、定義をもって使っているのかが現れてしまうのだ。

 

ほとんどの場合、使っている本人はそのことを自覚していない。

本人でも気が付いてない「本当の気持ち」というのが現れてしまっていることを自覚していない。

でも言葉を気を付けて使っている人ほど、それを非常に敏感に感じ取っている。

 

特に人との関わりに関する言葉と、抽象度の高い言葉には気を付けなければならない。

 

人との関わりに関する言葉は、相手のことを尊敬しているのか、対等と思っているのか、下に見ているのかということが如実に現れてくる。

 

抽象度の高い言葉は捉えどころがないので、自分なりに定義して使わなければ多くの誤解と損失を生んでしまう。

例えば「キャベツ」という言葉は非常に具体的で、誰もが同じものを思い浮かべるだろう。

だけど「自由」という言葉はどうだろうか。

この言葉はよく耳にするし多用されているが、明確に定義して使っている人はどれほどいるのだろうか。

私は高校2年のときに「自由とは何か」ということを真剣に考えたことがる。

個人の自由が、誰かにとっての不自由になることだってあるのではないか、と思ったできごとがあったからだ。

当時私は、「リベラリズム(自由主義)」について言及している哲学者たちに魅了されたほどだ。(ここでは割愛する)

要するに、抽象的な言葉を使うときほど明確な定義を持っていなければいけないということだ。

 

ここまで偉そうなことを書いてきたが、本当は私は言葉を使うことが怖い。

なぜなら私は今、自分の意見を主張するために「言葉」を使っているからだ。

だから言葉の使い方に最も気を付けなければならないのは、私なのだ。

だけど私は同時に言葉が大好きだ。「言語」という世界の虜になてっいて、さっさと時間とお金を獲得して言葉に関する考察をしたい。

だからこれからも常に私の人生の隣にいる言葉と上手に付き合っていけるよう模索していきたい。

 

 

 

 

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